廣教寺境内地にある薬師堂です。当山は浄土宗で本尊は『阿弥陀如来』ですが、この薬師堂には『薬師如来』が奉られています。今ではお参りの方も少なくなりましたが、昭和20〜50年代は信者さんが多く、『広島のお薬師さん』として親しまれていました。今では見かける事もない『お百度』に参られる方も多数いらっしゃいました。
現在はお参りの方は少なくなりましたが、毎月の縁日(8日)には堂内で百万遍の『数珠繰り』をして、無病息災を祈願しています。

◆薬師如来とは、どんな仏さま…?
薬師如来は西方極楽浄土の阿弥陀如来に対して東方浄瑠璃界の教主です。『薬師瑠璃光如来本願功徳経』の中に次のように説かれています。
この仏は菩薩であったころ、十二の大願を立てたとされ、その七番目の願いに『我之名号 一経其耳 衆病悉除 身心安楽』、「病のものも私の名前を聞けば患いが除かれる」とあって、これが薬師信仰の根拠とされています。
その名の通り医薬を司る仏で、医王という別名もあり、衆生の病気を治し、安楽を与える仏とされます。このため仏像もしばしば薬壷を持っています。

◆浄土宗の寺に『何故お薬師様が…?』
その縁起は堂内の額(写真右)に書かれています。

(前略)その昔、寛文の頃安芸の城下町に原因不明の疫病が流行し老若貴賤の区別無く得態の知れぬ病魔に倒れ(中略)丁度その頃、廣教寺に増譽南柳上人という高僧が居られました。上人は病魔に恐れおののく人を痛く哀れみ日頃念持する廣教寺の本尊阿弥陀如来に一七日の祈願をこめられました。その満願の朝、上人の霊眼に映じたのは西方極楽世界の阿弥陀如来ならず東方浄瑠璃世界の薬師如来の御姿でありました(中略)薬師如来の霊像を安置して三七日の大祈願会を奉修致しますと不思議やさしも、猖獗(しょうけつ)を極めた疫病も漸次を影をひそめて遂に元の平安に立返り(後略)。
注:(一七日)7日・1週間 /(猖獗(しょうけつ))勢い盛んにはびこる
※ 阿弥陀如来が、いつ頃から奉られたのか正確な文書は無いが、上記額写真の内容から推察するに廣教寺の第三世、増譽南柳上人の頃と思われる。この額は戦後、先代住職が言い伝えを基に作ったものである。

薬 師 堂

薬 師 堂 内

お花見(4月8日)

無病息災を願い
「数珠繰り」をされる信者

町名(柳町)の由来

現在は廣教寺の地名は『橋本町』ですが、 寛文時代(1661〜1672)は江戸時代で、増譽南柳上人(寛文7年遷化)は廣教寺の第三世で、廣教寺の地名は昔は『下柳町』で、この柳町は南柳上人の柳から柳町と名付けられ、明治15年(1882年)上柳町と下柳町に分離されたそうです。



注    釈

寛文時代(1661〜1672)の頃、広島城下に原因不明の疫病にて、大勢の民衆が倒れ、当時の廣教寺、第3世、増譽南柳上人が、本尊阿弥陀如来に1週間祈願された処、上人の目に映じたのは、西方極楽世界の阿弥陀如来ではなく、東方浄瑠璃世界の薬師如来の御姿が映ったので、薬師如来の霊像を安置して21日間の大祈願をされると、疫病は影をひそめ、もとの平和に戻ったとのことであります。